浜松が生んだ世界のオートバイメーカー達

宿場町・綿織物の町浜松

浜松は、古くから東西交通の要衝として重要な立地にあり、
江戸時代には、東海道五十三次の中間に位置する宿場町として繁栄し、
当時本陣が6軒もあったほど賑わっていました。
江戸時代初期には綿花の生産が盛んな農業地帯であったが、
江戸後期には綿織物業の町となりました。

そこに織機生産が始まり、今日の浜松3大産業の基礎となる、
機械工学知識が蓄積される土壌が出来、
ここに腕のよい職人達が集まって技術の研鑽が起こるのは必然です。

また、歴史的に権力者の庇護を受けた経験の無い浜松は、
遠州人独特の気質である「やらまいか精神」が顕著な土地柄でもあります。
冬場になると、この地方を吹き荒れ暴れる「からっ風」に首をすくめて耐え忍ぶ経験が、
忍耐力と何事もあきらめない気概の形成に影響していると指摘する声もあります。

エンジンの開発

こうした要素が複合的に作用し、豊田佐吉、山葉寅楠本田宗一郎、
鈴木道雄という歴史に名を残す人物立ちを次々に輩出して行ったわけです。
4強と呼ばれる、世界的オートバイメーカーのうちの3社がなんとこの浜松で産声をあげています。
3社がオートバイを完成させる以前に、遠州織機がオートバイ試作に着手したが、
軍靴の足音が響く時代の中、完成間近で頓挫してしまった経緯があるのです。

オートバイの前身ともいえる自転車補助エンジンは、終戦の翌年に、
軍が使用していた無線用小型エンジンを本田宗一郎が改良し、
自転車に取り付けて走ったのが始まりです。

翌年には改造ではなく、自作のエンジンを製造し、
1949年には本格的なオートバイを浜松の工場で完成させドリーム号と名付けて販売を開始しました。
20世紀初頭、鈴木織機として創業し既にこの分野でグローバルに名声を得ていた現スズキは、
二代目社長の号令の下、バイク産業へ参入しました。

自転車補助エンジンのパワーフリーを完成させ、世に送り出したのはホンダに遅れること
6年であるが、それでもこのパワーフリーは当時販売されていたどの
自転車補助エンジンにも技術的に勝ると賞賛を浴びた製品でした。
ヤマハの前身である日本楽器製造は、太平洋戦争中は軍用機のプロペラ製造を行っていました。
同社の浜松工場は敵の爆撃で焼失し、残った工場や設備は進駐軍に接収されたのです。

試作一号機「赤トンボ」

接収が解除された1953年から密かにオートバイ製造の研究に着手し、
翌1954年には試作一号機を完成させました。
赤い車体の世に言う「赤トンボ」YA-1です。
デビューするや否や富士登山レースで優勝し、
次の浅間火山レースでは先行メーカーのホンダやスズキをぶっちきり、1位から4位までを独占し、
華々しい登場劇を演じた上、直ぐに国内トップメーカーに躍り出てしまったのです。

オートバイ産業の曙時代、浜松に林立する製造メーカとの熾烈な競争を勝ち上がった、
いずれも個性的で高い技術力と、独自のスピリットに溢れた3社です。
長年グローバルオートバイ市場で50%というトップシェアを守ってきたホンダを筆頭に、
激しく追い上げHY戦争という言葉も生んだ、二番手ヤマハ発動機。
他の人がやらないことをするをモットーに、
先行メーカーが手を染めない領域で鮮やかな製品を作り上げるスズキ。
時には遠州のからっ風に身をすくめながら、難局をしのいだこともある、やらまいか企業です。